水上勉と原発

3・11以後、地震と津波と原発をどう描くか、作家たちは苦闘しています。このような時こそ、かつて作家たちは「どのように描いたのか」を見つめ直す必要がありそうです。
水上勉が原発を描いたのは、1997年に出版された『故郷』でした。
アメリカ在住の芦田浩二と妻の富美子が、終焉の地を求めて故郷の丹後半島を訪問する物語と、日本人の母を尋ねて来日した若いアメリカ人女性が、丹後の田舎に巻き起こす物語が交差した構成ですが、原発については、「原発銀座」といわれている若狭湾を遠望した芦田夫妻の感慨として語られています。

「たしかに、世界でびっくりするほどの急成長だよな。こういう記録は、今世紀でもめずらしいことかもしれん。戦争でまけた国が、大人も子供もみんな手をあげて降参したはずの国が、アメリカや西ドイツと肩をならべる経済力をもったんだ。このスピードの速さは、無理がなかったとはいえないぜ。どこかで、欠けたところがある。賭には勝ったからいいようなものだけれど、もし逆目に出たら、それは、急転直下成長どころでなく、衰弱だ。ぼくには、せまい若狭に15基も原発があつまるっていうのは、少し無理がある気がするな。そうじゃないか、きみは安全なものなら、いいでしょう、というけれど、誰も完全に安全なものだとはいっていないんだ。日本で起きないが、よそでは起きているんだ。事故を見てて、謙吉は、お母さんの国は不幸だといっている。あいつは、もっとひどいことをいったな」
「人体実験、棄民政策・・・・・・誰かの入れ智恵でそんなことをあたしにいったのよ。世界のどこをみても、せまい村の半島に東洋一の出力の原発が8基も密集している所はないって・・・・・・」
「そう、あいつは何やかやグループで調べているんだ。あいつの原発否定論には、根本的な考えがあって、50年使ったあとの、原子炉が、6百年もくすぶって残るということにあるらしい。ぼくも謙吉の意見には賛成なんだ。きみのいうとおりいくら安全でつとめを終えても、発電炉はぼくらが死んだあと6百年も燃つづけてゆく。燃える棺桶・・・・・・」
「・・・・・・」
「それに、廃棄物をいっぱいだすが、いまのところその捨て場所が国内にはない。どこにもうけとり手がない放射能まじりのゴミを、15基もある原発は将来どこへ捨てるのだろう」

「あとがき」によると、この作品は「昭和62年7月から2、3年間にわたって」全国地方新聞12紙の連載したものですが、連載が終了してから約10年近くを、出版に踏み切らなかったといいます。
エッセイ『若狭憂愁 わが旅Ⅱ』(1986年)があります。その中で、「いまや、神だのみでしか生きられない『原発銀座』の良識世界にぼくは憂慮を感じる」と書き、その思いを『故郷』にぶっつけたのです。連載終了10年後に、あえて単行本として世に問うた心根に、原発に対する強い危機意識を見て取ることができます。
1963年に出版された『饑餓海峡』には、原発の描写が一つもありません。ところが物語の重要な場面が、すべて原発に関係しています。
樽見京一郎は若い頃、大阪から北海道の開拓農家を頼って来道、やがて掘切鉱山の採掘夫をやり、敗戦で鉱山が閉山すると、その荒れ地での開墾に情熱を燃やし、芋作りに活路を見つけます。樽見は堀切の芋を原材料にした産業を舞鶴で興して成功します。この堀切開拓地が北電泊原発のある泊村にありました。
青函連絡船層雲丸の海難事故に紛れて、樽見は青森県の仏ヶ浦に上陸し、乗ってきた船を絶壁の上で燃やします。元函館警察署警部補弓坂吉太郎が、この灰を樽見に見せる場面は圧巻でしたが、仏ヶ浦は建設中の大間原発の地です。
新聞で樽見を見つけた八重が、樽見を尋ねその日の内に殺されますが、樽見が八重の死体を遺棄した場所は、「原発銀座」といわれている若狭湾です。
東野圭吾が『天空の蜂』で、「一度原発を受け入れた土地は、原発なしではやっていけなくなってしまう。悪循環の見本みたいなものです。でもね、だからといって、受け入れた側が愚かだとはいいたくありません。過疎が進む村や町の人間は、それはもう必死なんです。僕が腹をたてるのは、そういう人間の心理につけこむやり方です。国や電力会社は一種のトリックを使っているんです」と怒っていますが、泊―大間―若狭はまさにこうしたトリックの犠牲の地です。
日本海にのぞんだ若狭湾の谷の奥にある乞食谷と呼ばれる土地で生まれた水上が、樽見京一郎と八重の悲劇の舞台を、過疎が進む村に求めたことは納得できるのです。

2012年1月25日 会員M